『心が明るいから、幸せへの感性も鋭くなる。幸せを簡単に発見することができるから、心がまた明るくなる、という循環をくり返すわけである。幸福な人とはみなそういうものなのであろう。』、と彼は嬉しそうに言いました。世界中の人が彼みたいな考え方をしていて、その考えを実行できたら…凄いことになると思いませんか?世界中が幸せで溢れる、幸福を知っている人たちばかりになる、そんな気がするんです。こう思うのは私だけなんでしょうか?素敵な考えだなと思うことは、すぐにでも誰かに教えたいんです。自分ひとりのものにはしておきたくないんです。喜びはたくさんの人たちと分け合ったほうが、さらに嬉しくなるでしょう?それと同じことだと思うんですね。幸せも同じであると思っています。一人だけ幸せを感じるのもいいかもしれませんが、たくさんの人たちと同じ幸せを分かち合えたら、同じ幸せでも大きさが違うと思うんです。
ところで、みなさんは感謝祭って知ってますか?彼は感謝祭について、こう言っていました。『私は感謝祭とは与えられたものや好意に対して感謝する日だとばかり思っていた。しかし、ある事のおかげで感謝祭のもう一つの意味がわかった。どんなささやかなことでも、自分以外の人に何かをしてあげるチャンスを与えられたことに対して感謝する日でもあったのだ。』、と。彼はどこまで心が広く、優しい人なのでしょうか。私だったら彼の前半の言葉に対して同意できても、後半の言葉には疑問を持ちます。なぜ、自分以外の人に何かをしてあげるチャンスを与えられたことに感謝する必要があるのか、わかっていないからです。自分以外の人に何かをしてあげることにチャンスは関係ないのではないと思っていました。他の人に何かをしてあげるということ、それは自分の意志で行なうものだと思っていたからです。でも、彼はちがうと言いました。チャンスを与えられたから、他の人に何かをしてあげられるのだ、と。私の意志でおこなっているのではないと言いました。何がなんだか、さっぱりだった私はしばらくの間、彼の言葉の真意についてなやんだのです。他の人に何かをしてあげるためにはチャンスが必要なのかどうか…なやんでいる間、私は他の人に何かをしてあげる機会がありました。その時、彼の言葉の真意がわかりました。もし、その機会がなかったら私はいまだになやみつづけていたでしょう。私がやってあげたいと思っていても、相手がそれをのぞんでいなかったら、成立しないのです。双方が望んで、初めて成立するのだと、わかったんです。だから、彼はあえてチャンスを与えられたと言ったのでしょう。相手が望んで、私に頼ってくる…それが与えられるチャンスのことだったのです。そのチャンスはいつでも与えられるものではありません。自分が望んで与えられるものでもありません。とても貴重なチャンスだからこそ、与えられたことに対して感謝するべきなのだと思いました。それがわかった翌年の感謝祭からは私も彼と同じように、与えられたものや厚意に対して感謝することはもちろん、自分以外の人に何かをしてあげるチャンスを与えられたことに対しても感謝をするようになったのです。
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